思ひ出のシベリヤ

〜19XX年 旅の軌跡 番外編〜


  まさかと思っていた召集令状の連絡があったのは、忘れもしない昭和18年の8月11日の暑い午後でした。その頃、自分は母と弟と三人暮らしで、姉は近くに嫁いでおりました。自分は義理の兄が経営する履物関係のお店につとめておりました。父が亡くなって本籍をそのままにしておいた関係だろうと思うのですが、栃木の喜連川というところの役場からの連絡でした。

  気がつくと自分はその日の夕方、上野駅から出る東北線の列車に乗っていました。乗り物の不便なところで十キロほどある真っ暗な山川を夜通し歩いて、先方の役場に着いたのは翌日の夜明けでした。入隊は昭和18年8月14日午前8時。宇都宮歩兵東部三六部隊でした。

  前日に部隊の近くに宿をとらないと間に合わない。自分が住んでいたところは豊島区の大塚で、まだ色街がいくらか残っていて、にぎやかでした。前日13日には、町内会の有志たちやきれいなお姐さん達の歓呼の声に送られて大塚駅をあとにしましたが、もうこれが最後で二度とみなさんと会うことが出来ないかもしれない、と思うとちょっとセンチになりました。当日は午前8時に入隊で、営門まで送ってくれた親せきの人達ともこれが最後のお別れになるのではないかと思うと、なんとなく目頭があつくなってくるのをおぼえました。

  翌日からは激しい訓練が毎日つづき、いささか体もまいってきました。半月ほどした夜中に非常召集のラッパに起こされ、真っ暗な夜道を宇都宮駅に向かいました。真っ暗な列車に乗って宇都宮をあとにしましたが、列車は東京方面に向かっているのがわかりました。田端のあたりから山手線に池袋を通って品川方面に出るらしい。そのなことを考えている内に列車は故障でもしたのか止まってしまった。

  窓のすきまから外を見ると外はもう明るくなっていて、彼方に大塚駅の駅名が見え、ホームのはづれに自分が地方にいた時、義兄達とよく食べに行ったとんかつ屋の親父さんが立っているのがよくわかったが、ホームからこちらは見えない。何とかして今出征して行くことを知らせたかったが、とうとう駄目でした。あとで同様にして若い憲兵伍長に見つかり、往復ビンタをもらい、さんざんしぼられたことを覚えています。

  それから列車は一日半ぐらいして下関に着きました。すぐに連絡船に乗りうつり出発しましたが、ちょうど九月の半ばで台風が来ており連絡船の中は将校も下士官も兵もみんな甲板に横になり、早く目的地に着くことを祈っておりました。

  翌朝は朝鮮の釜山に上陸し、小学校らしい建物で休憩を取ることになりました。自分をはじめ、他の戦友達も明日はどこへ行くのやら不安の顔をかくすことは出来ませんでした。中国か北満州か、それから二日程して釜山を出発しました。飯あげかトイレ以外は見られない貨車の中でした。

  二日ほどして戸のすきまから外を見るとハルピンの駅名がよみとれました。次のチチハルで自分達は下車をし、迎えの将校達に遠いところをご苦労と一声かけられ、チチハルの部隊に入隊しました。

  翌日は部隊編成です。其の頃自分は体格がよく、84キロもあり、上官から「お前は体格が良いから馬に行け」と云われ、重機関銃部隊に編入されました。都会に育って馬など生物にさわったこともない自分には何とも馬の手入れは苦手でした。馬の背を洗い、蹄の中を掃除する危険な仕事をしなくてはならない古参兵は一度教えると二度と教えない。そんな困ったとき、同じ頃に入隊した戦友の村上二等兵に一方ならない世話になりました。彼の実家は農家で、日頃馬や牛を使って農耕をしていたので、馬の扱いに馴れているとのことで、ずいぶんと彼にはお世話になりました。

  翌年の正月、内地からの初年兵が大勢きましたが、身につけている短剣のベルトが布で出来ていて肩から吊るしている水筒が竹筒でした。初年兵の話だと、内地では食糧がとぼしく、酒屋に行っても甘いものなど何もないという話でした。ここ満州のわれわれの部隊は食糧も豊富で、豚の数などは兵隊と同じくらい飼育していて、昼飯も夜も肉料理が多く、初年兵は大喜びでした。

  内地のひどさは初年兵の話で想像出来ました。昭和20年の入日に入ると急にさわがしくなってまいりました。ソ連兵が各所で越境して来るのはわかりましたが、上司からは発砲するなと止められていたので、こちらから何かすることも出来ませんでした。そのうちにソ連の武装した兵隊がどんどん管庭に入って来て、武装解除が始まりました。管庭にならべられた兵器を全部トラックに積んで自国へ持って行きました。その悔しさは今でも忘れません。

  そのうちに食糧庫にあった米・麦・大豆・味噌・醤油とあらゆる食糧を残らず我々を使役に使って自国へと運び去りました。今度は我々兵隊の始末です。トラックや貨車に乗せられ三日も四日もどこだかわからぬ山を歩かされ、山の中の収容所にようやく到着しました。元ソ連の囚人達が住んでいたところだということです。

  九月の末だというのにもう寒く、白樺の木がたくさんありました。戦友の話だとそれはモンゴルの近くだと云っていたが、真偽のほどはわからない。その日から其処で生活することになりました。元はソ連の囚人がそこで働いていたそうです。収容所といっても百人くらいの人が寝泊りする簡素な小屋です。昨日も一緒だった戦友の村上一等兵の姿が見えない。どこへ行ったのか無事でいてくれれば良いのだがと願うばかりです。

  自分たちの作業はソ連の囚人達がやり残しておいた鉄道工事でした。自分らの仕事は、山へ行って白樺の木を伐採して枕木をこしらえることでした。一日の食事は粟かコーリヤンの入ったおかゆで、それも少なく、湯呑茶碗一杯と乾燥したニシンの干したのが入ったスープと黒パンの小さいのが一切れでした。毎日、日々の重労働のわりにわずかな食事で体がもたない。栄養失調のような体で無理に働いている。夜寝ると隣の戦友と内地での食べることの話ばかりです。夕べそんなことを話合った戦友が朝に声をかけると冷たくなっているのも度々ありました。

  やせ細った自分の体を見ると明日はわが身かもしれないと思うと涙が出てきて眠れない夜もありました。身体があまりに弱って作業に出られないものは休憩所みたいな小屋があって、其処で仕事を休んで寝ているのだが、その小屋からは二度と元気な姿を見たものは誰もいない。

  自分一年半を過ぎたあたりから体の異状に気がついてきました。胸が痛み、力が入らず作業にも出られなくなってきた。そんなある時、収容所の所長と話をするチャンスがありました。お互いに言葉がわからなかったが、まず部屋の隅に彼の汚れものがたくさんあるのに気がついた自分は、まず彼のよごれもののパンツくつ下シャツ等を洗濯してペーチカのあるあたりに、あたたかい部屋の中のロープを吊るして乾してやりました。お礼に大きな黒パンを一枚もらったときの嬉しさは言葉では言い尽くせない。コツを覚えた自分はその後も何度かそんなことをしては黒パンに腹を満たしていた。そんなことを知った戦友達の中には、帝国軍人たるものが何たることだと陰口を云っているものもいた。

  その夜、所長が自分の肩をたたいて小指を出して何かを云っているのだが、お互いに言葉がわからない。想像するに、お前は日本に女房がいるのかを尋ねているらしい。その頃自分は独身で召集したのだが、相手の同情を買ふために小さな子供が三人と女房がいることを手まね足まねで伝えた。所長はわかったのかうなづいていた。また黒パンにありつけた。それから三ヶ月程経った頃、所内が何かあわただしくなってきた。ある日、所長が、今度の帰還兵の中にはお前たちの名前があると聞かされた時は思はず所長の手を握っていました。涙なみだでした。

  トラックに乗り、列車に乗り、ナホトカの港に着いたのは四日目の朝でした。9月の20日頃だと記憶しています。部隊にいたときさんざん助けられたあの村上一等兵はどうしたのだろうか。何時までも頭から離れなかった。無事でいてくれれば良いがと祈るばかりです。それでもやっと日本に帰れるだと思うと涙がわいて来ました。

  兵が舞鶴の岸壁に着いた時には、帰還兵をさがしていた年老いた母や夫を待つ若い奥さん等、身よりをさがす人々が大勢おりました。上陸早々アメリカ兵に真っ白なデーデイを頭からかけられた時はおどろきました。上陸後は一人ひとり個室に呼ばれ、道役付で兵隊の数をかどんな兵器があるのか色々と聞かれました。その夜は其処に一泊して翌朝は関係者の人達から金参百円也を貰い、満員列車で舞鶴をあとにしました。

  自分は東京に帰らねばならない。二日かかって巣鴨に降りた時には早く家の様子が知りたくて近くの義兄の家を訪れ、いろいろと話を聞くことが出来ました。自分の家はショーイ弾の直撃を受け、あとかたもありませんでした。家族は母も姉も弟も福島県の相馬という所に疎開していて、こちらには誰もおりませんでした。母も疎開先で病気になり、亡くなっていました。悲しいかぎりでした。姉と弟の無事な顔を見ることが出来た時はほっとしました。自分もシベリヤにいた時の不養生な生活がたたったのか、復員後まもなく腹をわずらい閉口しましたが、ある人の紹介で秩父宮様の主治医をなさっていた中野の公開兵に開業なさっていた寺尾殿治先生に気胸をして頂きまして、三ヶ月程で元気になり、働くことが出来るようになりました。

  そのうちに世話する方があって、現在の妻と結婚して一男をさずかり、その息子も52才になり、孫も二人でき、目下二人とも早稲田大学に通学しております。妻も84才になりますが、元気で家事をやっております。

  自分はシベリヤに居た時のはげしい労働のたたりか変型性脊柱管狭ササ症という病気で毎日通院しております。まもなく90才になりますが、ここまで生きのびられたことを感謝致しております。ただ満州の部隊でさんざんお世話になった村上一等兵はどうしているだろうか。無事で再会出来ることを祈るばかりです。

固有名 歩兵第三八六連隊第一大隊第一中隊
通称名 満州第十三四三部隊 寺坂隊中田隊
上等兵 薄井寿雄
直属第一四九帰国第三八六聴隊

※この文章は、原稿を現代文に書き直してあります。

おしまい

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